제53회 무화과나무를 통해 주시는 교훈 |
2016년 11월 27일 설교 |
본문은 실제 설교와 차이가 있을 수 있습니다. |
마가복음 11장 12절~14절 |
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마가복음 9장 41절 성경소설 <요셉의 재회> 다운로드 |
할렐루야! 하나님을 사랑하시면 아멘 하시기 바랍니다.
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이카호중앙교회 |
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- 2021.05.28 [설교본문] 제53회 무화과나무를 통해 주시는 교훈
- 2021.05.28 [설교본문] 제52회 감사의 의미
- 2021.05.28 [설교본문] 제51회 움직일 때, 변화할 때
- 2021.05.27 [설교본문] 제50회 하나님이 주시는 양식
- 2021.05.27 [설교본문] 제49회 성령님과 악령
- 2021.05.27 [설교본문] 제48회 던져진 나무 하나
- 2021.05.27 [설교본문] 제47회 주님이 꾸짖으신 이유
- 2021.05.27 [설교본문] 제46회 놀라운 은혜
- 2021.05.27 [설교본문] 제45회 예수께서 기뻐 웃으시더라
- 2021.05.27 [설교본문] 제44회 하나님의 시선
제52회 감사의 의미 |
2016년 11월 20일 설교 |
홍성필 목사 http://www.ikahochurch.com ikahochurch@gmail.com |
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시편 50장 23절 "감사로 제사를 드리는 자가 나를 영화롭게 하나니 그의 행위를 옳게 하는 자에게 내가 하나님의 구원을 보이리라" |
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마가복음 9장 41절 "누구든지 너희가 그리스도에게 속한 자라 하여 물 한 그릇이라도 주면 내가 진실로 너희에게 이르노니 그가 결코 상을 잃지 않으리라" <한 달에 1,000원> <물 한 그릇 선교후원> 여러분의 기도와 섬김이, 선교의 횃불을 밝힙니다. KB 국민은행 079-21-0736-251 홍성필 성경소설 <요셉의 재회> 다운로드 |
ハレルヤ!神様を愛する方はアーメン!と告白しましょう。アメーン。今日は皆さまと一緒に「感謝の意味」감사의 의미というテーマで恵 みを分かち合いたいと思います。 今日は何の日ですか?と尋ねられれば皆さんは何と答えられますか?日本語では収穫祭、または感謝祭と呼ばれることもありますが、正確には収穫感謝祭 、そして今日の礼拝は収穫感謝礼拝というべきでしょう。 収穫感謝祭はほかの教会の記念日よりも、歴史が浅いですが、教会だけに限らず世界にはこのような収穫を祝う記念日はたくさんあります。 西洋の収穫感謝祭のルーツに関しては諸説がありますが、大体16世ごろから始まったとみられています。特 にアメリカではローマカトリックからの迫害から逃れるためにアメリカへ渡った移民たちによって感謝祭が執り行われたとされています。そしてアメリカの祝日の中で最も初めて制定された日がこの 収穫感謝祭だと言います。 日本では、「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」日として制定されているのが11月23日の勤労感謝の日です。韓国では中秋節として旧暦の8月15日を前後して国民的な祝日となっています。 人々が主に収入を農業に頼 っていた時代、一般的に収穫は年に一回でした。これは本当にハイ・リスクです。もちろん、今も稲作は年に一度の収穫ですが、もし洪水やその他の天災などで被害を被っても、保険やあるいは国からの補助などの制度が整っていると聞いております。でも、昔はそんなものはありません。災害などでその年の収穫ができなかったら、それこそ一巻の終わりです。年に一度の収穫が無事にできるかどうかには自分だけではなく家族の1年間の生活がそこにかかっているのです。 では、収穫祭と収穫感謝祭とではどう違うでしょう?はい、「感謝」が入っているかいないかの違いです。「感謝」が入っていないとただの収穫祭 で、「感謝」が入っていると収穫感謝祭になります。 そんなことは、子供でも分かります。では、文面ではそうだとして、意味合いとしてはどうでしょう。違いがありますか?それとも、似たようなものですか? 実はこれには決定的な違いがあります。みなさん、「感謝」という気持ち、「感謝」という感情を抱いたことがありますか?もちろん、おありだと思います。では、その時の気持ちを思い浮かべてください。ただ、漠然とした感謝ですか?単純に「感謝」だけの感情で終わりですか?いいえ、違います。 「感謝」という感情を抱く時は、必然的に「感謝の相手」を思い浮かべるのが自然です。それも、漠然とした相手ではなく、たいていの場合 、具体的な相手が私たちの頭の中にはあります。たとえば、誰かが私を助けてくれた、誰かが私にプレゼントをくれた、誰かが私をほめてくれた、誰かがわたしによくしてくれた、その時人々は「感謝の気持ち」を抱くことになりますが、当然、この時はその具体的な「誰か」に対してその感謝の気持ちがわいてくるものです。 もし、自分の力で作物を育て、自分の力で収穫できたと信じる人々は、喜 びはするかもしれませんが、感謝はしません。それは当然でしょう。感謝とはほかの対象にするものであって、自分自身 にするものではありません。自分ではない、ほかの力によって何かが成し遂げられた時、人々は感謝するものです。 スポーツを見てみましょう。そうですね。たとえば、卓球やゴルフはどうでしょう。大きな試合に出場し、優秀な成績を修めるために、それこそ寝る間も惜しまず努力した結果、優勝したとしたら、それだけで優勝ができたと思うとしたら、その人は、 喜びはすれど、感謝をしないでしょう。しかし、感謝をする人は、自分の努力、それだけではない、ほかの力 によって成し遂げられたと思うから、その対象に対して感謝をするわけです。 私たち人間は時に、自分の力を過剰に信頼する、自分自身 の力を信頼しすぎる傾向が見られます。人間の学問で、科学で、思想で、何でも究明できると信じ込んでいるきらいがあります。しかし、果たしてそうですか? 例えば、科学はどうでしょう。科学こそ人間が信じるべきもので、科学で証明できないものはない、とまで豪語する人もいます。 でも、ちょっと考えてみましょう。人間はわずか400年前 まで、太陽が地球の周りをまわっていたと信じていました。それが科学です。たくさんの骨が発見された恐竜でも、決してわかることのできないもの、それが、何かお分かりですか?恐竜の色です。恐竜は当時どんな色をしていたのかは、解明することができません。それが、科学です。 人間は遺伝子のコピーのミスによる突然変異で誕生した。これが科学です。これがいわゆる進化論ですが、考えてみるといろんな意味で、とても面白 いです。この進化論の話を詳しくすると、それだけで時間になってしまうので、なるべく、手短にしてみると、こうです。まず、海に生命体 がありました。その中のある魚たちの中で、突然、 遺伝子のコピーのミスによる突然変異で誕生した一部の特殊な魚たちが、陸 を目指し始めました。そして、何度も何度も何度も陸への上陸を試みた結果、ある日突然、成功しちゃったんです。 それまではエラ呼吸をしていましたが、それからは肺というものができて、もちろん、これも「遺伝子のコピーのミスによる突然変異で誕生」したものですが、急にできてしまったんです。それも、この世の中で 一匹 だけできたとしても、子孫を残すことはできません。それに、そのような突然変異が、離れたところで起きたとしても、やはり子孫は残せません。つまり、そのようなとてつもない偶然が、ある 日突然 、それも、地理的にかなり近いところで起きたということです。そして、めでたくその二つは結婚し、突然変異の産物である子孫を残した。しかし、これで終わりではありません。魚の卵はとても柔らかいです。これでは卵を安全に守ることはできない。どうしよう。彼らは悩みました。そうだ、からの堅い卵を産もう。そう考えたその動物たちは、それから一生懸命努力して固い殻をもった卵を産むことに成功しました。これが 爬虫類の誕生です。 しかし、それも不安だ。卵を盗まれてしまっては困る。では、どうしようか。そうだ、卵を体の中でふ化させて産もう。そうすれば卵を盗まれる心配 もない。そうして、また、彼らは一生懸命努力をして、果たしてどのように努力したかは全く分かりませんが、その結果、体の中でふ化させて、赤ちゃんを出産することになりました。これが哺乳類の誕生です。 そして、その中で、突然、これもまた、例の「遺伝子のコピーのミスによる突然変異で誕生」によって、二本足 で歩くものが出てきました。それらは手を使い始めました。そして、それが「アウストラロピテクス」になり、ジャワ原人や北京原人になり、次にネアンデルタール人になり、クロマニョン人になり、そして最後に今の私たちようなホモサピエンスになったというのが科学です。これを信じろというんです。これが科学ですか?私から言わせるとですね、この進化論こそがまさに宗教です。こんなことをですね、たくさん 勉強した偉い先生たちが笑いもせずにおっしゃいます。 では、この進化は今はストップしていますか?そんな根拠はどこにもないはずです。だったら、この世の中で、この進化も進んでいっているはずです。しかし、それだったら大変でしょう。たとえば、法律ではどうでしょう。この世の法律は人間が人間のために作ったものです。ある野生の動物が人間とは何の関係もない他の動物を 襲ったとしても法律で裁くことはできません。 それでは、進化が今も行われているとしたら、法律が適応できる範囲、つまり人間の範囲に関する規定があってもよさそうなものでは、ありませんか? もちろん、成年か未成年かというのに関する話は聞きますが、どこからどこまでを人間とする、なんて、そんな規定や決まりがあるという話は聞いたことがありません。 そんな規定や決まりがないというのはどうしてですか?それは、そんなものがなくても誰が人間なのか、人間じゃないのかぐらいは、そんな規定や決まりがなくてもわかるということなんです。 これは、今に限ったことではなく、未来永劫 、変わることはありません。どうしてですか?答えは簡単です。はい、それは、人間は進化しないからなんです。だからと言って、誤解しないでください。進化はしないが進歩はします。 例 えば、ルールを守らなかった人が、教育を受けたりしてルールを守るようになる、走るスピードが遅かった人がトレーニングをすれば速く走れるようになるというのは、進歩です。 しかし、人間でないものが人間になるとか、人間だったものが人間でないものになるとかということは、決して起こりません。もし人間の進化というものが本当にあって、昔、犯した過ちはもう繰り返さないということだったら、何が必要なくなりますか?もし、そのようなことになったら、まず、はじめになくなる物、いえ、なくさなければならないもの、それは、聖書です。そうでしょ? 今のような人間に進化する前の、数百年前、数千年前の人間が犯した罪や過ちを、今の進化した人間はもう犯さないとなったら、これはそれこそ何の意味も取 り柄も価値もない、ただ分厚いだけの本でしかありません。 第二テモテへの手紙には聖書の定義について単純明快に書かれています。 第二テモテへの手紙3章16節 「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」 디모데후서 3장 16절 “모든 성경은 하나님의 감동으로 된 것으로 교훈과 책망과 바르게 함과 의로 교육하기에 유익하니” 人間がもし進化をしているのなら、これは過去形になっているはずです。人間が進化する前は、聖書とはこんなに役に立 っていたんだよ、でも、それは昔の話だよ。という具合です。 しかし、どうですか?数百年前、数千年前 に書かれた本であるにもかかわらず、今でも聖書を開くと、そこに納められた人間の罪深さや神様の愛は、今、21世紀を生きる私たちにも、ありありと伝わってきます。 考えれば考えるほど科学とは、もろいものです。ほかの学問もそうです。例えばこの前、アメリカであった大統領選を見て下さい。開票寸前 、アメリカの大手ニュース専門の放送局であるCNNはヒラリー・クリントン候補の当選確率 を91%だと予想しました。やれ教授だ、やれ評論家だと言う人たちも、かなりの割合で彼女の当選を予測していました。 新聞社たちは、あるいは、彼女の当選が確実された時に使う記事をあらかじめ書いておいたかもしれません。そこには、彼女 が今度の選挙で勝利するしかなかった科学的分析でぎっしり埋められていたに違いありません。あるいは、4年前、オバマ大統領が再選を果たした時に流行 した「ビックデーター」がどうのこうのという内容もあったことでしょう。しかし、結果はどうですか?予想に反してトランプさんが当選しました。 人間の知識や能力が私たちを救ってくれるとお思いですか?人間の学問や経験や理論が私たちを真理へと導いてくれるとお思いですか? 聖書を見てみましょう。 第一コリント人への手紙1章20節 「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。」 고린도전서 1장 20절 “지혜 있는 자가 어디 있느냐 선비가 어디 있느냐 이 세대에 변론가가 어디 있느냐 하나님께서 이 세상의 지혜를 미련하게 하신 것이 아니냐” コロサイ人への手紙2章8節 「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。」 골로새서 2장 8절 “누가 철학과 헛된 속임수로 너희를 사로잡을까 주의하라 이것은 사람의 전통과 세상의 초등학문을 따름이요 그리스도를 따름이 아니니라” 人間の力だけで、いくらあがいても、この世の知識は幼稚でしかありません。いくらこの世の学問や科学を用いて、神を否定し、神の領域 を超えようとしたところで、所詮それは、むなしい限りの、だましごとにすぎないと聖書には書かれています。 それでは神様は私たちに何を望んでおられるでしょう。 ここに幼い子供がいます。パパやママがその子供に何かをしてあげます。何かを買ってあげます。例えば、その子の大好物である、おいしい料理 を作ってあげました。その子のお気に入りの服を買ってあげました。 その時のパパとママの気持ちを考えてみてください。パパとママは何を望むでしょう。私があなたに料理を作ってあげたのだから、あなたもこれから私に料理 を作ってくれと言いますか?私があなたにお気に入りの服を買ってあげたのだから、あなたもこれから私に服を買ってくれと言いますか?そんなご両親 はいないでしょう。では、何を望みますか?何を期待しますか? そうです。「ありがとう」の言葉です。感謝の気持ちを望んでいるに他ありません。 神様は私たちに望んでおられるのは、私たちの力 で新しい何かをするのではありません。 十字架の上でイエス様は最後におっしゃいました。 ヨハネの福音書19章30節 「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」 요한복음 19장 30절 “예수께서 신 포도주를 받으신 후에 이르시되 다 이루었다 하시고 머리를 숙이니 영혼이 떠나가시니라” 完了した。もう、すべては成し遂げられたと仰ったのです。それでは私たちは何をしなければなりませんか。 マルコの福音書5章36節 「イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」」 마가복음 5장 36절 “예수께서 그 하는 말을 곁에서 들으시고 회당장에게 이르시되 두려워하지 말고 믿기만 하라 하시고” ローマ人への手紙10章9節 「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」 로마서 10장 9절 “네가 만일 네 입으로 예수를 주로 시인하며 또 하나님께서 그를 죽은 자 가운데서 살리신 것을 네 마음에 믿으면 구원을 받으리라” ただ、キリスト・イエスを信じればいいんです。私たちの口でイエス様を主と告白し、私たちの心で神様は独り子であるイエス様を死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、それで、私たちは救われると書かれています。 私たちが神様に感謝をささげることは、神様の力 に頼るという証しであり、神様だけが私の救い主だという告白なんです。神様はこれを望んでおられるということを信じましょう。これこそ、神様が私たちに望んでおられるんです。 詩篇18篇1節~3節 「彼はこう言った。主、わが力 。私は、あなたを慕います。主はわが巌(いわお)、わがとりで、わが救い主、身(み)を避(さ)けるわが岩(いわ)、わが神(かみ)。わが盾(たて)、わが救(すく)いの角(つの)、わがやぐら。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。」 시편 18편 1절~3절 “나의 힘이신 여호와여 내가 주를 사랑하나이다 여호와는 나의 반석이시요 나의 요새시요 나를 건지시는 이시요 나의 하나님이시요 내가 그 안에 피할 나의 바위시요 나의 방패시요 나의 구원의 뿔이시요 나의 산성이시로다 내가 찬송 받으실 여호와께 아뢰리니 내 원수들에게서 구원을 얻으리로다” このような証し、このような告白を神様はとても喜ばれます。 今日の本文をもう一度見てみましょう。 詩篇 50章23節、 「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。」 시편 50장 23절 감사로 제사를 드리는 자가 나를 영화롭게 하나니 그의 행위를 옳게 하는 자에게 내가 하나님의 구원을 보이리라 感謝のいけにえをささげる、それは聖書的には什一献金 を収めるのも感謝のいけにえでしょう。感謝の捧げものをするものをすることも、感謝のいけにえです。しかし、それだけではなく、感謝の奉仕を捧げる、感謝のお祈りを捧げる、感謝の心を捧げても、神様は快く受け 取ってくださることと思います。 今日はただ収穫を喜ぶだけの日ではありません。私たちが収穫できたのは私たちの力ではない、神様の力 によるものだと認める日です。神様が私たちを愛し、私たちに収穫を与えて下さったことを喜ぶ日なんです。 とても喜ばしい収穫をお与えになった神様に感謝し、そして神様の愛に報いる私たちでありますことを切に望みます。 |
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2016년 11월 13일 설교 |
홍성필 목사 http://www.ikahochurch.com ikahochurch@gmail.com |
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고린도후서 5장 17절 "그런즉 누구든지 그리스도 안에 있으면 새로운 피조물이라 이전 것은 지나갔으니 보라 새 것이 되었도다" 第二コリント人への手紙 5章17節 “ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。” |
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마가복음 9장 41절 "누구든지 너희가 그리스도에게 속한 자라 하여 물 한 그릇이라도 주면 내가 진실로 너희에게 이르노니 그가 결코 상을 잃지 않으리라" <한 달에 1,000원> <물 한 그릇 선교후원> 여러분의 기도와 섬김이, 선교의 횃불을 밝힙니다. KB 국민은행 079-21-0736-251 홍성필 성경소설 <요셉의 재회> 다운로드 |
할렐루야! 하나님을 사랑하시면 아멘 하시기 바랍니다. 아멘 오늘 저는 여러분과 함께 "움직일 때, 변화할 때" 라는 제목으로 은혜를 나누고자 합니다. 얼마전에 인터넷에서 다음과 같은 글을 발견했습니다. 제목은 "교회에서 가장 무서운 사람" 입니다. 잠깐 소개해 드리겠습니다. 1. 오랜 기간 새벽기도에 한번도 빠지지 않고 참석하는 집사님의 눈길이 무섭습니다. 그분의 머릿속에는 목사와 장로가 새벽기도에 빠진 날짜와 횟수가 정확하게 기록되어 있습니다. 2. 십일조를 정확하게 꼬박꼬박 하는 신자의 눈길이 무섭습니다. 그분의 머릿속에는 십일조를 빼먹거나 제대로 하지 않는 동료 신자들의 목록이 빼곡히 들어 있습니다. 3. 40일 금식기도를 다녀온 권사님의 눈길이 무섭습니다. 그분의 시선에는 너는 금식기도를 하지 않느냐는 무언의 질타가 섞여 있습니다. 4. 크고 건강한 교회를 다니는 성도가 무섭습니다. 그분의 말투에는 작고 별볼일없는 교회를 다니는 사람들에 대한 우월감이 넘쳐납니다. 5. 신학박사 학위를 받은 신학자가 무섭습니다. 그분 앞에 서면 모든 사람들이 종류별로 차곡차곡 분리되어 버리고 맙니다. 6. 성도 수가 제법 되는 교회 목사님들이 무섭습니다. 그분의 권위와 무게가 엄청난 압박으로 성도들을 찌그러뜨립니다. 이 이야기에 대해 여러분은 어떻게 생각하십니까? 공감 되는 부분이 있으십니까? 제 생각에 교회 생활을 오래 하신 분일수록 이런 경향을 보이는 것 같습니다. 물론 교회만 그런 것은 아니고 세상에도 그런 사람들은 많이 있습니다. 사회에서 자신의 경력, 성과, 학벌 등등을 내세우는 모습들을 우리는 많이 봅니다. 하지만 문제는 이것이 교회 안에서도 일어나고 있다는 점입니다. 주일 예배는 물론이고 새벽예배까지 하루도 빠지지 않는 사람, 자기의 수입에서 십일조를 꼬박꼬박 내시는 분, 이런 분들의 우리가 보통 말하는 믿음 좋은 분들이라고 할 수 있겠죠. 하지만 그것은 어디까지나 하나님이 인정해 주셨을 때 가치가 있는 것입니다. 하나님으로부터 네 믿음이 좋구나 라는 칭찬을 듣는 것이 그것이 진정한 가치가 있는 것이지 아무리 주변 사람들로부터 칭찬을 듣는다 하더라도 그것은 아무런 의미가 없습니다. 아무런 의미가 없는 것은 고사하고 오히려 역효과가 나는 경우도 있습니다. 마태복음 6장 5절은 다음과 같이 기록되어 있습니다. "또 너희는 기도할 때에 외식하는 자와 같이 하지 말라 그들은 사람에게 보이려고 회당과 큰 거리 어귀에 서서 기도하기를 좋아하느니라 내가 진실로 너희에게 이르노니 그들은 자기 상을 이미 받았느니라" 예수님이 오셨을 때 이른바 율법학자나 바리새인들의 신앙은 무척 깊었다고 합니다. 하지만 그들은 그들의 신실함을 다른 사람들에게 자랑하고 그것으로 권위를 삼으려 했습니다. 예수님은 율법학자와 바리새인을 가리켜 "회당과 큰 거리 어귀에서 서서 기도하기를 좋아한다"고 말씀하시는데 이것은 다니엘서와 관련이 있습니다. 다니엘서 6장 10절에 보면 다니엘이 하루에 세 번 무릎을 꿇고 하나님께 기도하는 장면이 나옵니다. 그래서 예수님 당시 신앙이 좋은 사람들은 다니엘처럼 하루에 몇 번씩 시간을 정해 놓고 기도를 드리고 있었습니다. 기도 시간이 정해져 있었지만 중요한 일이 생기면 일을 볼 수 밖에 없겠죠. 그렇게 다른 일을 보고 있는 중이라고 하더라도 기도 시간이 되면 어디에서든 기도를 드렸습니다.그것을 본 사람들은 그의 믿음이 신실하다고 칭찬했을 것입니다. 그런데 사람들의 칭찬에 맛을 들인 율법학자나 바리새인들이 어떻게 했느냐 하니, 집에 있다가도 기도 시간이 되면 일부러 바깥에 나가서 큰 소리로 기도를 합니다. 회당이나 큰 거리 어귀는 사람들이 많이 모이고 행인이 많은 곳입니다. 그런데 기도시간이 되면 일부러 거기에 나가서 큰 소리로 기도를 한다는 것입니다. 이 기도가 그 사람의 신앙을 잘 나타내고 있습니까? 그 기도는 하나님을 향한 기도일까요? 그렇지 않습니다. 그것은 하나님을 향한 기도가 아니라 주변 사람들한테 자신을 드러내 보이고 자신을 자랑하는 행위일 뿐입니다. 예수님은 바로 이러한 행위에 대해 화를 내고 계셨던 것입니다. 그렇기 때문에 예수님은 말씀하십니다. 그들은 이미 자신이 받은 상을 받았다는 것입니다. 하나님께 기도를 드리면서 하나님께 감사하고 내 소망을 말씀을 드리는 것, 이것은 매우 가치있는 행위입니다. 하나님은 가식이나 위선이 아닌 솔직한 우리의 기도를 기뻐하십니다. 그리고 하나님께서는 분명히 응답하십니다.또 분명히 거기에 대한 상이 있습니다. 예레미야 33장 3절에는 "너는 내게 부르짖으라 내가 네게 응답하겠고 네가 알지 못하는 크고 은밀한 일을 네게 보이리라" 라고 말씀하십니다. 요한복음 14장 14절 "내 이름으로 무엇이든지 내게 구하면 내가 행하리라" 우리가 하나님께 기도하고 간구하면 하나님께서 우리에게 응답하시고 상을 베푸십니다. 우리에게 확실한 답을 주신다고 주님께서는 말씀하고 계십니다. 하지만 율법학자와 바리새인은 하나님께 기도를 드린 게 아닙니다. 그들의 기도는 그저 주변 사람들의 인정과 칭찬을 위한 의미없는 행위에 불과할 뿐입니다.그래서 하나님께서 내 기도를 기쁘게 받아 주시는지 아닌지는 생각지도 않는 것입니다. 이것을 하나님께서 기뻐하시겠습니까? 그럴 리가 없습니다 그래서 주님은 이렇게 말씀하십니다. 마태복음 6장 6절 "너는 기도할 때에 네 골방에 들어가 문을 닫고 은밀한 중에 계신 네 아버지께 기도하라 은밀한 중에 보시는 네 아버지께서 갚으시리라" 주님이 주시는 응답과 세상 사람이 주는 응답,주님이 주시는 상과 세상 사람이 주는 상, 어느 쪽이 더 크겠습니까. 하나님께서 주시는 응답, 하나님께서 주시는 상, 하나님께서 주시는 은혜를 간구하는 여러분 되시기를 주님의 이름으로 축원합니다. 고대 그리스의 대표적인 일곱 철학자, 칠현이라고 하는데 그중 한 사람 탈레스와 관련되어 이런 일화가 전해집니다. 어떤 청년이 탈레스에게 세상에서 가장 어려운 것이 무엇이냐고 물었습니다. 탈레스는 자기 자신을 아는 것, 이것이 가장 어려운 일이라고 답했습니다. 그럼 가장 쉬운 것은 뭐냐 물으니 다른 사람에게 충고하는 일이라고 답했다고 합니다. 믿음 안에서 자기 자신을 안다는 것은 무엇일까요. 성경에는 다음과 같이 적혀있습니다. 갈라디아서 1장 4절 "그리스도께서 하나님 곧 우리 아버지의 뜻을 따라 이 악한 세대에서 우리를 건지시려고 우리 죄를 대속하기 위하여 자기 몸을 주셨으니" 이것은 우리는 어쩔 수 없는 죄인이고 우리 힘으로는 아무리 발버둥쳐도 구원을 얻을 수 없지만 하나님의 은혜로, 예수님이 십자가에 달리심으로, 멸망할 수밖에 없던 우리가 구원을 받았다는 것입니다. 죄에 찌든 우리를 대신해 하나님의 독생자께서 우리가 받아야 할 죄를 대신 짊어지셨던 것입니다. 그 덕분에 우리의 죄가 모두 다 사라지게 되었습니다 신앙 안에서 나 자신을 안다는 것은 바로 이 사실을 아는 것입니다. 이것을 알게 된 우리는 그럼 어떻게 해야 하겠습니까? 그렇죠, 변해야 합니다. 이 무엇과도 바꿀 수 없는 하나님의 마음을 알게 된 우리는 어제까지의 우리 모습이 아닙니다. 오늘 말씀 다시 한 번 보도록 하겠습니다. "그런즉 누구든지 그리스도 안에 있으면 새로운 피조물이라 이전 것은 지나갔으니 보라 새 것이 되었도다" 그렇습니다. 예수님 안에 있는 우리는 어제까지의 우리가 아니라 새롭게 만들어진 피조물이라고 성경은 말씀하십니다. 새로운 피조물이라는 것은 어제 만들어진 피조물이에요? 그렇다면 그것은 과거의 것입니다. 요즘 21세기 첨단과학기술은 하루가 다르게 발전하고 있습니다. 전자제품 같은 것은 하루가 다르게 새 모델이 나오고 있죠. 얼마나 빠른가 하면 아무리 최신형 컴퓨터를 산다 하더라도 그것을 사서 집에 가져오면 이미 구형이 되어 버린다는 이야기까지 있습니다. 그렇다면 주님의 가르침을 따르고 성경 말씀을 따르는 우리는 어떻습니까? 주님 안에 있다면 새로운 피조물이라고 성경은 말씀합니다. 이전 것은 지나갔고 모든 것이 새롭게 되었다고 주님께서는 지금 우리에게 말씀해 주시고 계신 것입니다. 이 성경 말씀을 지금 잘 들었습니다.그러면 그것으로 끝인가요? 그래, 오늘부터 좀 새롭게 되자, 이건 매우 좋은 마음가짐입니다. 하지만 한 번만으로 끝난다면 어떻게 되겠습니까? 내일이 되면 이미 구형되고 맙니다. 그럼 어떻게 해야 되죠? 그렇죠, 매일매일 하루하루 새로워져야 합니다. 8년 전 미국 민주당은 오바마 대통령의 "체인지" 라고 하는 슬로건을 내세워 대선에서 승리했습니다. 그러나 힐러리 클린턴을 후보로 내세운 이번 대선에서는 많은 전문가들의 예측을 뒤엎고 패배하고 말았습니다.한 번이나 두 번 변한다는 것은 그렇게 어렵지 않을 지도 모르겠습니다. 그러나 그것을 그대로 내버려둔다면 그것은 금방 빛이 바래고 맙니다. 구형이 되어버리고 만다는 것이죠. 마태복음 13장에서 예수님은 씨 뿌리는 자의 비유를 말씀하십니다. 마태복음 13장 3절에서 9절 말씀 보도록 하겠습니다. 마태복음 13장 3절~9절 "예수께서 비유로 여러 가지를 그들에게 말씀하여 이르시되 씨를 뿌리는 자가 뿌리러 나가서 뿌릴새 더러는 길 가에 떨어지매 새들이 와서 먹어버렸고 더러는 흙이 얕은 돌밭에 떨어지매 흙이 깊지 아니하므로 곧 싹이 나오나 해가 돋은 후에 타서 뿌리가 없으므로 말랐고 더러는 가시떨기 위에 떨어지매 가시가 자라서 기운을 막았고 더러는 좋은 땅에 떨어지매 어떤 것은 백 배, 어떤 것은 육십 배, 어떤 것은 삼십 배의 결실을 하였느니라 귀 있는 자는 들으라 하시니라" 여기서 씨라는 것은 아버지의 나라, 하나님의 나라, 천국 말씀이라고 19절에서 설명하고 계십니다. 말씀이 우리 마음속에 뿌려졌습니다. 그럼에도 불구하고 무사히 성장해서 결실할 수 있었던 씨는 좋은 땅에 떨어진 씨 뿐이었습니다. 그럼 좋은 땅은 어떤 땅일까요? 우리가 논밭을 경작한다고 하면 농사를 짓고 수확을 하면 그것으로 끝날까요? 논밭을 좋은 땅으로 유지를 하려면 경작을 게을리하면 안됩니다. 땅을 간다는 것이 무엇이겠습니까? 그야말로 변화입니다. 바로 새로움을 유지하는 것입니다. 여러분의 집이나 방을 한번 떠올려 보시기 바랍니다. 이제 연말이 다가오니 대청소를 하는 가정도 많을 것입니다. 자, 1년에 한 번 그야말로 대대적으로 대청소를 하면 일 년 동안 청소는 할 필요가 없어요? 그렇지 않습니다. 항상 깨끗한 집을 유지하기 위해서는 평소 부지런히 청소를 해야만 합니다. 우리는 예수님의 은혜로 죄가 사해지고 깨끗하게 될 수 있었습니다. 하지만 그것을 끝인가요? 이제 아무것도 안 해도 됩니까? 예수님을 영접했으니 이제 아무것도 안해도 구원받을 수 있다고 성경을 자기 멋대로 해석하고 그 해석을 진짜인 것 처럼 그럴듯하게 주장을 하는 사람들도 있습니다만 이것은 엄연히 성경의 가르침에서 벗어난 것입니다. 우리는 항상 변화해야만 합니다. 그럼 변화하기 위해서는 어떻게 해야 되겠습니까? 그렇죠, 바로 움직여야 하는 것입니다 우리가 그릇을 씻기 위해서는 세제가 필요합니다. 몸을 씻기 위해서는 비누가 필요합니다. 그럼 우리를 씻기 위해서는 무엇이 필요하겠습니까? 그것은 바로 성령님의 능력, 성경의 말씀이 필요한 줄 믿으시길 주님의 이름으로 축원합니다. 그리고 또 예배가 필요합니다. 로마서 12장 1절 "그러므로 형제들아 내가 하나님의 모든 자비하심으로 너희를 권하노니 너희 몸을 하나님이 기뻐하시는 거룩한 산 제물로 드리라 이는 너희가 드릴 영적 예배니라" 우리가 우리 삶을 하나님께 바치는 것, 이것이 영적인 예배라고 성경은 말씀합니다. 우리 인생을 통해서 하나님께 영적인 예배를 드리기 위해서 우리는 새로워져야 합니다. 이 변화는 해도 되고 안해도 되는 것이 아닙니다. 선택의 여지 없이 우리는 변화해야 합니다. 그 외에 구원에 이르는 길, 하나님 앞에 설 수 있는 길은 없습니다. 하지만 우리가 새로워지는 것을 원하지 않는 자들이 있습니다. 바로 마귀입니다. 마귀 사탄은 우리가 구원받는 것을 원하지 않습니다. 성경에는 율법학자나 바리새인들의 부정적인 모습이 많이 나오지만 그들이 처음부터 그랬던 것이 아닙니다. 그들은 정말 하나님을 잘 믿고 싶었습니다. 하나님을 알고자 했습니다. 모세의 율법을 지키고 싶어했습니다. 하지만 그들은 변화를 거부했습니다. 움직이기를 거부했다는 것이죠. 출애굽기에는 하나님이 모세를 보내 이스라엘 민족이 애굽을 탈출하는 과정이 잘 나와 있습니다. 모세는 애굽 왕 바로에게 가서 이스라엘 민족을 보내지 않으면 하나님의 심판이 임한다고 몇 번이나 경고합니다.그 때 바로가 모세에게 한 말이 매우 의미심장합니다. 출애굽기 8장 28절을 보겠습니다. 출애굽기 8장 28절 "바로가 이르되 내가 너희를 보내리니 너희가 너희의 하나님 여호와께 광야에서 제사를 드릴 것이나 너무 멀리 가지는 말라 그런즉 너희는 나를 위하여 간구하라" 2014년 4월 16일 한국에서 발생한 세월호 침몰 사고의 기억은 여전히 선명하게 남아 있습니다. 승객, 승무원 476명 그 중 325명이 수학여행 중이었던 고등학교 2학년 학생들이었습니다. 배가 기울어지고 가라앉기 시작했을 때 안내방송은 가만히 있으라 했습니다. 가만히 있으라고 되풀이해서 방송이 나왔을 뿐이었다고 합니다. 그리고 그 안내방송을 듣고 따른 학생들이나 승객들 295명은 결국 돌아오지 못했습니다. 정말 안타깝고 가슴 아픈, 다시는 있어서는 안될 비극입니다. 서양에는 굴러가는 돌에는 이끼가 끼지 않는다, 라는 속담이 있습니다 우리가 굴러가지 않고 변화하는 것을 멈추면 어떻게 될까요. 이끼가 나지 않기는커녕 마귀의 밥이 되고 맙니다. 베드로전서 5장 8절은 다음과 같이 기록합니다. 베드로전서 5장 8절 "근신하라 깨어라 너희 대적 마귀가 우는 사자 같이 두루 다니며 삼킬 자를 찾나니" 우리의 적인 마귀가 우는 사자처럼 두루 다니며 삼킬 자를 찾는다는 것입니다. 그럼 우리는 어떻게 해야 되는 것일까요.성경에는 이에 대한 답도 적혀 있습니다. 에베소서 4장 27절 "마귀에게 틈을 주지 말라" 이 말씀은 정말 짧으니까 기억해 두셔도 좋을 것 같습니다. 에베소서 4장 27절 "마귀에게 틈을 주지 말라" 그렇습니다. 틈을 주지 않도록 해야 합니다. 기회를 주어서는 안 되는 것이죠. 우리는 하나님 안에서 항상 새로워야 합니다. 그것이 좋은 땅이고 그래야 30배 60배 100배로 결실을 할 수 있는 것입니다. 우리는 이를 위해 끊임없이 움직이고 끊임없이 변화해 가야 하는 것입니다. 오늘 말씀을 다시 한번 보도록 하겠습니다. 고린도후서 5장 17절 "그런즉 누구든지 그리스도 안에 있으면 새로운 피조물이라 이전 것은 지나갔으니 보라 새 것이 되었도다" 하나님 안에서 예수님 안에서 움직이고 변화해서 항상 새롭게 거듭나는 우리 모두가 되시기를 주님의 이름으로 축원합니다. - - - - - - - ハレルヤ!神様を愛する方はアーメン!と告白しましょう。アメーン。今日は皆さまと一緒に「動く時・変わる時」움직일 때, 변화할 때というテーマで恵 みを分かち合いたいと思います。 先日、ネットで、次のような書き込みを見つけました。タイトルは「教会で最も怖い人」として、六つの人たちが挙げられていました。 先ず、第一、早天礼拝を1日も欠席しなかった執事の視線が怖いです。その方の頭の中には、早天礼拝 を欠席した牧師や長老の回数と日にちが正確に記録されています。 2番目、什一献金を正確にきちんと収める信者の視線が怖いです。その方の頭の中には、什一献金を納めない同僚の信者たちのリストがギッシリ詰まっています。 3番目、40日間断食のお祈りをささげた信徒の視線が怖いです。その方の視線には「どうしてあなたは断食をしないか」という無言の圧力が感じられます。 4番目、規模が大きく素晴らしい教会に通う信者が怖いです。その方の言葉には小さくみすぼらしい教会に通う人たちに対する優越感であふれています。 5番目、神学博士の学位を受けた神学者が怖いです。その方の前に立つと、すべての人たちが、種類別に振り分けられてしまいます。 6番目、信徒数が多い教会の牧師先生が怖いです。 その方の権威と重さがとてつもなく重くのしかかってきます。 1. 새벽기도에 오래도록 한 번도 빠지지 않고 참석한 집사님의 눈길이 무섭습니다. 그분의 머릿속에는 새벽기도에 빠진 목사와 장로들의 빠진 횟수와 날자가 정확하게 기록되어 있습니다. 2. 십일조를 정확하게 꼬박꼬박하는 신자의 눈길이 무섭습니다. 그분의 머릿속에는 십일조를 빼먹거나 제대로 하지 않는 동료 신자들의 목록이 빼곡히 들어 있습니다. 3. 40일 금식기도를 다녀온 권사님의 눈길이 무섭습니다. 그분의 시선에는 '너는 왜 금식기도를 하지 않느냐'는 무언의 질타가 섞여 있습니다. 4. 크고 건강한 교회를 다니는 성도가 무섭습니다. 그분의 말투에는 작고 별 볼일 없는 교회를 다니는 사람들에 대한 우월감이 넘쳐납니다. 5. 신학 박사 학위를 받은 신학자가 무섭습니다. 그분 앞에 서면 모든 사람들이 종류별로 차곡차곡 분류되어 버리고 맙니다. 6. 성도수가 제법 되는 교회 목사들이 무섭습니다. 그분의 권위와 무게가 엄청난 압박으로 성도들을 찌그러트립니다. 皆さん、特に教会という枠組みの中で長く生活してきた方ほど、このような傾向が見られます。しかし、これは教会に限ったことではありません。世間には、例 えば教会でなくても、職場などで、自分の経歴や成果を見せびらかすということはあるかも知れません。でも、問題はこのようなことが教会でも起きているということなのです。 例えば、日曜礼拝はもとより、早天礼拝までも1日たりとも休まなかった方、自分の収入の中から10分の1を収める什一献金 を欠かさなかった方、このような方の信仰の力というものはとても素晴らしいものがあると見当は付きます。礼拝 を欠かさないというのは、自分の人生のすべてのことについて神様にゆだね、ただ、神様に栄光をささげたいという切実な思いがあるに違いない、と、人々に思わせるに足るものがあります。でも、それは、神様が認めてくださって初めて価値があるものです。「 貴方 は本当に神様を信じる心が深いですね。」と神様から、イエス様から言われて初めて価値があるものなのです。いくら、周りの人から、「すごいですね、大したものですね」と言われても、何の意味もありません。意味がないどころか、逆効果もあるのです。 マタイの福音書6章5節には次のように書かれています。 「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立 って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」 또 너희는 기도할 때에 외식하는 자와 같이 하지 말라 그들은 사람에게 보이려고 회당과 큰 거리 어귀에 서서 기도하기를 좋아하느니라 내가 진실로 너희에게 이르노니 그들은 자기 상을 이미 받았느니라 イエス様が来 られた時のいわゆる律法学者やパリサイ人(びと)たちは、信仰心がとても深いと言われました。しかしそれを通り越して、私はこんなにも熱心に神様を信じているんだと人々に見せびらかしたりもしました。ここでイエス様は当時の、 律法学者やパリサイ人(びと)たちを指して、彼らは「会堂や通りの四つ角に立 って祈るのが好き」だと言われました。これは何かというと、旧約聖書のダニエル書6章10節によると、当時の大臣であり、ダリヨス王からもとても厚い信頼を得ていたダニエルは、日に3度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していたと書かれています。ですからイエス様が 来られた当時の信仰心の深い人たちは、一日のうちで時間を決めて、日に3度のお祈りをささげていました。 では、お祈りの時間が決められていたにもかかわらず、どうしても大事な用ができて、出かけるしかないということになったらどうしましょう。そのようなことになっても、お祈りを捧げることを欠かさず、たとえその時間に外にいたとしても、神様にお祈りをささげていました。それをみて、人々は言ったことでしょう。ああ、あの人の信仰はとても素晴らしい。あれを見なさい。自分が外にいても時間になったら祈りを捧げているではないか。などというような称賛を受けました。 ですが、これに味を占めた、律法学者 やパリサイ人(びと)たちはどうしたかというと、祈りの時間になったら逆に外に出ていきました。そして、外に出て大きな声で祈り始めます。ここに出てくる「会堂や通りの四つ角とは」人がたくさん集まるところ、 人通りが多い場所を指していますが、そこに出ていくんです。そして、大声で祈り始めます。 それはその人の信仰を表していますか?その人の祈りは神様に向けれられていますか?いいえ、それは神様に向けられた、心のこもった祈りではなく、周りの人たちに自分を見せびらかすだけです。どうだ?私はこんなにも熱心にお祈りを捧げているんだぞ?すごいだろう?さあ、こんな私を褒めたたえなさい。 言葉 は悪いですが、これは、とても、いやらしい行為です。そうじゃありませんか?皆さんはどう思われますか?本当に恥ずかしい限りですが、実際に当時、行われていたことです。情けないですね。 イエス様はこれに怒っていらっしゃったんです。ですからイエス様はおっしゃいます。「彼らはすでに自分の報いを受け取 っているのです。」これは、どういう意味かというと、祈りを捧げることで、もらうべきものは、もう、もらったようなものだということです。祈りというのは、神様に捧げるもの、神様に私たちの願いと、感謝の心を捧げる、とても価値ある行いです。神様は偽りや飾りのない、率直な私たちの祈りを 喜ばれます。そして、神様はその報いをくださいます。 エレミヤ書33章3節、 「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」 너는 내게 부르짖으라 내가 네게 응답하겠고 네가 알지 못하는 크고 은밀한 일을 네게 보이리라 ヨハネの福音書14章14節、 「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」 내 이름으로 무엇이든지 내게 구하면 내가 행하리라 私たちが神様にお祈りを捧げれば、神様は私に報いをくださいます。私たちの祈りに答えてくださるとおっしゃっています。でも、かれら、律法学者 やパリサイ人(びと)たちは、神様の報いを望んだのではありません。そうではなく、ただ単に周りにいる人から、あの人は立派 だ、素晴らしいと、ちやほやされたかっただけなのです。神様に自分の祈りが受け入れられるかどうかが問題ではなく、それだけが、至極安 っぽいとしか言いようがない称賛が目的だったのです。これを神様が喜びになられますか?そんなはずはありません。ですからイエス様はおっしゃいます。 次の節、マタイの福音書6章6節、 「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋 にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」 너는 기도할 때에 네 골방에 들어가 문을 닫고 은밀한 중에 계신 네 아버지께 기도하라 은밀한 중에 보시는 네 아버지께서 갚으시리라 皆さん、神様からの報いと、この世の人々からの報いと、どちらが大きいでしょうか。これは愚問ですよね。神様からの報いを欲する皆様 であることを切に望みます。 ギリシャの七賢人の一人、ギリシャの自然科学と哲学の父をいわれるターレスに関してこのような言い伝えがあるそうです。 ある青年に「世の中で一番難しいのは何でしょう?」と聞かれたそうです。この質問に対してターレスは 「自分自身を知ることだ」と答えました。「では、 一番簡単なことは?」と聞かれたターレスは、「他人に忠告することだよ」と言ったそうです。 信仰の中で、自分自身を知ることとは一体どんなことでしょう。聖書には次のように書かれてあります。 ガラテヤ人への手紙1章4節、 「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。」 그리스도께서 하나님 곧 우리 아버지의 뜻을 따라 이 악한 세대에서 우리를 건지시려고 우리 죄를 대속하기 위하여 자기 몸을 주셨으니 それは、自分がどうしようもない罪びとであること、自分の力ではどうあがいても、救いを得ることはできないということ、しかし、神様の恵 みによって、神様の一人子であるイエス様がほふられたことによって、犠牲になってくださったことによって、滅 びるしかない罪深き私たちの受けるべき罰を私たちの代わりにすべてをお受けになってくださったおかげで、私たちの罪がすべて帳消しになったこと、これを知ることに他ありません。 これを知った私たちは、では、どうしなければならないでしょうか。そうです。変わらなければなりません。この、何ものにも代えがたい、神様の御心を知った私たちは、もう、昨日までの私ではないのです。 今日の御言葉をもう一度見てみましょう。 第二コリント人への手紙5章17節、 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」 그런즉 누구든지 그리스도 안에 있으면 새로운 피조물이라 이전 것은 지나갔으니 보라 새 것이 되었도다 そうです。イエス様のうちにある者は、イエス様の御心の中にいる私たちは、昨日までの私たちではなく、新しく作られた者なのだと、聖書には書かれてあります。新しく造られた者とは、昨日、新しく造られた者ですか?それではもう過去の話になってしまいます。 最近の科学技術は目まぐるしく変わっています。いわゆる最新型のパソコンも毎日のように登場しています。ある人はこの様子をこんな言葉 で表していました。「最新型のパソコンといえども、それを買って家に帰ってきたらもう既に旧型になってしまっている」 では、イエス様の教えに従い、聖書の教えに従う、私たちはどうでしょう。 キリストのうちにあるなら、新しく造られた者と聖書は言います。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなったと、神様は今私たちに言って下さいます。この聖書の 言葉を今聞きました。それでおしまいですか? よし、今日から新しくなろう。そう思うのはとても大事です。ですが、1回限りで終わってしまっては、明日になれば、また古いものになってしまいます。それでは、どうしなければなりませんか?そうです。 毎日毎日新しくならなければなりません。 8年前、アメリカのオバマ大統領は「チェンジ」というスローガンを掲げて大統領選で勝利致しました。しかし、彼は今度の選挙戦では敗北 を喫してしまいました。それも、対等の相手ではなく、圧勝が予想されたにも関わらず、負けてしまいました。これは何を意味するでしょうか。そうです。1度や2度チェンジ、変化すること、変わるということは、そんなに難しくないかもしれません。しかしそれをそのままにしておけば、それは必ず色あせてしまいます。それこそ旧型になってしまうのです。アメリカの国民が、すでに色あせてしまったチェンジに振り向くことはありませんでした。だから負けてしまったのです。 マタイの福音書13章でイエス様は種をまく人のたとえをお話しされます。 マタイの福音書13章3節~9節 「イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来 て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がない Vために枯れてしまった。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは 六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい。」 예수께서 비유로 여러 가지를 그들에게 말씀하여 이르시되 씨를 뿌리는 자가 뿌리러 나가서 뿌릴새 더러는 길 가에 떨어지매 새들이 와서 먹어버렸고 더러는 흙이 얕은 돌밭에 떨어지매 흙이 깊지 아니하므로 곧 싹이 나오나 해가 돋은 후에 타서 뿌리가 없으므로 말랐고 더러는 가시떨기 위에 떨어지매 가시가 자라서 기운을 막았고 더러는 좋은 땅에 떨어지매 어떤 것은 백 배, 어떤 것은 육십 배, 어떤 것은 삼십 배의 결실을 하였느니라 귀 있는 자는 들으라 하시니라 この種は御国の言葉だと19節では説明しておられます。はい、御国の言葉、父なる神様の国の言葉、天国の言葉 が私たちの心の中にまかれました。にもかかわらず、ここで無事に成長して実を結ぶことができた種は「良い地に落ちた種」だとおっしゃいます。 みなさん、考えてみましょう。田んぼや畑を一度や二度、一生懸命耕 しておけば、それですべてが事足りますか?もう、仕事は終わりですか?さあ、これで1年は仕事をしなくてもいいだろう。そうですか?いいえ、違います。田んぼや畑を「良い地」として保つためには、常に耕しておかなければなりません。耕すとは何でしょうか。これこそ、まさにチェンジ、これこそがまさに、新しさを保つということです。 皆さんの家や部屋を思い浮かべてみてください。はい、そろそろ年末です。大掃除をする家庭もたくさんあるでしょう。じゃあ、1年にそれこそ大々的に大掃除 をしさえすれば、もう、1年は安心、ですか?いいえ、そんなことはありません。常にきれいな家、きれいな部屋 を保つためには日ごろから掃除をしなくてはいけないんです。 私たちがイエス様の恵みによって、罪が赦され、きれいになることができました。しかし、それで終わりですか? ああ、私たちの罪は一度赦されたのだから、もう何もしなくても救われたのだと、聖書を自分勝手 に解釈してた教理をまことしやかに、主張する人たちもいますが、それは明らかに聖書に反している教えです。私たちは常に変わらなければなりません。 それでは、変わるためにはどうしなければならないでしょうか。はい、そうです。常に動かなければなりません。神様の中で、イエス様の中で、常に新しく造られたものであり続けなければなりません。食器を洗うためには洗剤が必要です。体を洗うためには 石鹸が必要です。そして、私たちのここを洗うためには、聖霊の力と聖書の言葉、神様の言葉が必要なんです。そして、礼拝が必要です。 ローマ人への手紙12章1節を見ます。 「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖(きよ)い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの 霊的な礼拝です。」 그러므로 형제들아 내가 하나님의 모든 자비하심으로 너희를 권하노니 너희 몸을 하나님이 기뻐하시는 거룩한 산 제물로 드리라 이는 너희가 드릴 영적 예배니라 いわゆる礼拝とは「讃美」や「お祈り」、「捧げもの」、「メッセージ」で構成されますが、それだけでなく、私たちの人生をもって神様に捧げる、霊的 な礼拝だと聖書には書かれているんです。 私たちが私たちの人生を通して、神様に霊的 な礼拝を捧げるために、私たちは変化しなければなりません。変わらなければならないのです。変わってもいいし、変わらなくてもいいというような、安易 なものではありません。選択の余地はない、変わるしかないんです。それ以外に救いに至る道、父なる神様のみ前に立つ道はないんです。 しかし、この変化を望まない者がいます。それが何者ですか。そうです。それことが悪魔です。悪魔の仕業です。悪霊であるサタンは私たちが救われることを望みません。先に申し上げた 律法学者やパリサイ人たちは、聖書では何かと悪役にされがちですが、彼らが初めからそうだったのではありませんでした。彼等 は彼らなりに、信仰を深めたかった、神様を知りたかった、モーセの律法 を守りたかった人々でした。だが、彼らはしませんでした。何をしなかったのか、それは変化をしなかったんです。 動こうとしなかった、ただそこにそのまま立ち止まっていたかったんです。 出エジプト記 8章28節を見ると、神様が遣わされたモーセによって、イスラエルの民がエジプトを脱出しようとします。そのとき、エジプトの王であるパロはモーセに言った 言葉が大変興味深いです。 出エジプト記 8章28節 「パロは言った。「私は、おまえたちを行かせよう。おまえたちは荒野でおまえたちの神、主にいけにえをささげるがよい。ただ、決して遠くへ行ってはならない。私のために祈ってくれ。」 바로가 이르되 내가 너희를 보내리니 너희가 너희의 하나님 여호와께 광야에서 제사를 드릴 것이나 너무 멀리 가지는 말라 그런즉 너희는 나를 위하여 간구하라 そう、「決して遠くへ行ってはならない」変化?まあ、変化はいいよ。でも、ほどほどにしなさい。これが悪魔サタンの望むことです。 おととしの2014年4月16日に韓国、南西沖で発生したセウォル号沈没事故の記憶は未だに鮮明に残っています。乗員乗客476名、その内の325名が当時、 修学旅行中 の高校2年の生徒でした。船が傾き、沈み始めたときに、船内の案内放送では、何度も何度も、ただ「動かないように」と繰り返し、放送があっただけだと言います。そんな大人たちの指示に従った、高校生たちや乗客ら、295人は結局、 冷たい海の中で命を落とすことになってしまいました。そんな中、船の総責任者である船長はいち早く脱出をして救助されていました。本当に悔しい思いです。 私たちが動かなくなる、変化しなくなる。 そうなれば、もう、終わりです。西洋には「転がる石には苔が生えぬ」( A rolling stone gathers no moss )ということわざがあります。私たちがもし、転がることをやめ、神様の御言葉通 りに変化することをやめたらどうなるでしょうか。そうなってしまうと、苔が生えるどころか、悪魔の餌食になってしまうのです。 第一ペテロの手紙5章8節には、こう書かれています。 「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」 근신하라 깨어라 너희 대적 마귀가 우는 사자 같이 두루 다니며 삼킬 자를 찾나니 怖いですね。なんと恐ろしいことでしょう。私たちの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っていると聖書には書かれています。 では、私たちはどうすればいいでしょうか。聖書にはそのことに対する答えも書かれています。 エペソ人への手紙4章27節、 「悪魔に機会を与えないようにしなさい。」 마귀에게 틈을 주지 말라 そうです。機会を与えないようにしなければなりません。スキを見せてはいけないんです。 私たちは神様の中で常に新しい存在でなくてはなりません。それは、良い地であること、それが30倍、60倍、100倍と実を結ぶ秘訣であり、そのためには絶えず動き、変化しなければなりません。 今日の御言葉をもう一度一緒に読んでみましょうか。 第二コリント人への手紙5章17節、 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」 그런즉 누구든지 그리스도 안에 있으면 새로운 피조물이라 이전 것은 지나갔으니 보라 새 것이 되었도다 神様の中で、イエス様の中で、常に動き、常に変化し、常に新しく生まれ変わる私たちであり続けることを切に望みます。 |
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2016년 11월 6일 설교 |
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출애굽기 16장 15절~30절 |
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마가복음 9장 41절 성경소설 <요셉의 재회> 다운로드 |
할렐루야. 하나님을 사랑하시면
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제49회 성령님과 악령 |
2016년 10월 30일 설교 |
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갈라디아서 1장 6절~9절 |
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마가복음 9장 41절 성경소설 <요셉의 재회> 다운로드 |
할렐루야. 하나님을 사랑하시면
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제48회 던져진 나무 하나 |
2016년 10월 23일 설교 |
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출애굽기 15장 22절~25절 전반부 |
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마가복음 9장 41절 성경소설 <요셉의 재회> 다운로드 |
할렐루야. 하나님을 사랑하시면
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제47회 주님이 꾸짖으신 이유 |
2016년 10월 16일 설교 |
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마가복음 4장 35절~41절 |
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할렐루야. 하나님을 사랑하시면
아멘 하시기를 바랍니다. 오늘 저는 여러분과 함께 ‘주님이 꾸짖으신 이유’ 主がお叱りになられた理由이라는 제목으로 은혜를 나누고자
합니다. |
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제46회 놀라운 은혜 |
2016년 10월 9일 설교 |
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사사기 16장 22절 |
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할렐루야. 하나님을 사랑하시면 아멘 하시기 바랍니다. 오늘
저는 여러분과 함께 ‘놀라운 은혜’ 이라는 제목으로 은혜를 나누고자 합니다. |
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제45회 예수께서 기뻐 웃으시더라 |
2016년 10월 2일 설교 |
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요한복음 11장 35절 |
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할렐루야. 하나님을 사랑하시면
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제44회 하나님의 시선 |
2016년 9월 25일 설교 |
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시편 31장 24절 |
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할렐루야. 하나님을 사랑하시면
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