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제52회 감사의 의미
2016년 11월 20일 설교
홍성필 목사
http://www.ikahochurch.com
ikahochurch@gmail.com
본문은 실제 설교와 차이가 있을 수 있습니다.
시편 50장 23절
"감사로 제사를 드리는 자가 나를 영화롭게 하나니 그의 행위를 옳게 하는 자에게 내가 하나님의 구원을 보이리라"

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마가복음 9장 41절
"누구든지 너희가 그리스도에게 속한 자라 하여 물 한 그릇이라도 주면 내가 진실로 너희에게 이르노니 그가 결코 상을 잃지 않으리라"

<한 달에 1,000원>
<물 한 그릇 선교후원>

여러분의 기도와 섬김이,
선교의 횃불을 밝힙니다.

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홍성필



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ハレルヤ!神様を愛する方はアーメン!と告白しましょう。アメーン。今日は皆さまと一緒に「感謝の意味」감사의 의미というテーマで恵 みを分かち合いたいと思います。

今日は何の日ですか?と尋ねられれば皆さんは何と答えられますか?日本語では収穫祭、または感謝祭と呼ばれることもありますが、正確には収穫感謝祭 、そして今日の礼拝は収穫感謝礼拝というべきでしょう。
収穫感謝祭はほかの教会の記念日よりも、歴史が浅いですが、教会だけに限らず世界にはこのような収穫を祝う記念日はたくさんあります。
西洋の収穫感謝祭のルーツに関しては諸説がありますが、大体16世ごろから始まったとみられています。特 にアメリカではローマカトリックからの迫害から逃れるためにアメリカへ渡った移民たちによって感謝祭が執り行われたとされています。そしてアメリカの祝日の中で最も初めて制定された日がこの 収穫感謝祭だと言います。
日本では、「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」日として制定されているのが11月23日の勤労感謝の日です。韓国では中秋節として旧暦の8月15日を前後して国民的な祝日となっています。

人々が主に収入を農業に頼 っていた時代、一般的に収穫は年に一回でした。これは本当にハイ・リスクです。もちろん、今も稲作は年に一度の収穫ですが、もし洪水やその他の天災などで被害を被っても、保険やあるいは国からの補助などの制度が整っていると聞いております。でも、昔はそんなものはありません。災害などでその年の収穫ができなかったら、それこそ一巻の終わりです。年に一度の収穫が無事にできるかどうかには自分だけではなく家族の1年間の生活がそこにかかっているのです。
では、収穫祭と収穫感謝祭とではどう違うでしょう?はい、「感謝」が入っているかいないかの違いです。「感謝」が入っていないとただの収穫祭 で、「感謝」が入っていると収穫感謝祭になります。
そんなことは、子供でも分かります。では、文面ではそうだとして、意味合いとしてはどうでしょう。違いがありますか?それとも、似たようなものですか?
実はこれには決定的な違いがあります。みなさん、「感謝」という気持ち、「感謝」という感情を抱いたことがありますか?もちろん、おありだと思います。では、その時の気持ちを思い浮かべてください。ただ、漠然とした感謝ですか?単純に「感謝」だけの感情で終わりですか?いいえ、違います。

「感謝」という感情を抱く時は、必然的に「感謝の相手」を思い浮かべるのが自然です。それも、漠然とした相手ではなく、たいていの場合 、具体的な相手が私たちの頭の中にはあります。たとえば、誰かが私を助けてくれた、誰かが私にプレゼントをくれた、誰かが私をほめてくれた、誰かがわたしによくしてくれた、その時人々は「感謝の気持ち」を抱くことになりますが、当然、この時はその具体的な「誰か」に対してその感謝の気持ちがわいてくるものです。
もし、自分の力で作物を育て、自分の力で収穫できたと信じる人々は、喜 びはするかもしれませんが、感謝はしません。それは当然でしょう。感謝とはほかの対象にするものであって、自分自身 にするものではありません。自分ではない、ほかの力によって何かが成し遂げられた時、人々は感謝するものです。
スポーツを見てみましょう。そうですね。たとえば、卓球やゴルフはどうでしょう。大きな試合に出場し、優秀な成績を修めるために、それこそ寝る間も惜しまず努力した結果、優勝したとしたら、それだけで優勝ができたと思うとしたら、その人は、 喜びはすれど、感謝をしないでしょう。しかし、感謝をする人は、自分の努力、それだけではない、ほかの力 によって成し遂げられたと思うから、その対象に対して感謝をするわけです。
私たち人間は時に、自分の力を過剰に信頼する、自分自身 の力を信頼しすぎる傾向が見られます。人間の学問で、科学で、思想で、何でも究明できると信じ込んでいるきらいがあります。しかし、果たしてそうですか?
例えば、科学はどうでしょう。科学こそ人間が信じるべきもので、科学で証明できないものはない、とまで豪語する人もいます。
でも、ちょっと考えてみましょう。人間はわずか400年前 まで、太陽が地球の周りをまわっていたと信じていました。それが科学です。たくさんの骨が発見された恐竜でも、決してわかることのできないもの、それが、何かお分かりですか?恐竜の色です。恐竜は当時どんな色をしていたのかは、解明することができません。それが、科学です。
人間は遺伝子のコピーのミスによる突然変異で誕生した。これが科学です。これがいわゆる進化論ですが、考えてみるといろんな意味で、とても面白 いです。この進化論の話を詳しくすると、それだけで時間になってしまうので、なるべく、手短にしてみると、こうです。まず、海に生命体 がありました。その中のある魚たちの中で、突然、 遺伝子のコピーのミスによる突然変異で誕生した一部の特殊な魚たちが、陸 を目指し始めました。そして、何度も何度も何度も陸への上陸を試みた結果、ある日突然、成功しちゃったんです。

それまではエラ呼吸をしていましたが、それからは肺というものができて、もちろん、これも「遺伝子のコピーのミスによる突然変異で誕生」したものですが、急にできてしまったんです。それも、この世の中で 一匹 だけできたとしても、子孫を残すことはできません。それに、そのような突然変異が、離れたところで起きたとしても、やはり子孫は残せません。つまり、そのようなとてつもない偶然が、ある 日突然 、それも、地理的にかなり近いところで起きたということです。そして、めでたくその二つは結婚し、突然変異の産物である子孫を残した。しかし、これで終わりではありません。魚の卵はとても柔らかいです。これでは卵を安全に守ることはできない。どうしよう。彼らは悩みました。そうだ、からの堅い卵を産もう。そう考えたその動物たちは、それから一生懸命努力して固い殻をもった卵を産むことに成功しました。これが 爬虫類の誕生です。
しかし、それも不安だ。卵を盗まれてしまっては困る。では、どうしようか。そうだ、卵を体の中でふ化させて産もう。そうすれば卵を盗まれる心配 もない。そうして、また、彼らは一生懸命努力をして、果たしてどのように努力したかは全く分かりませんが、その結果、体の中でふ化させて、赤ちゃんを出産することになりました。これが哺乳類の誕生です。

そして、その中で、突然、これもまた、例の「遺伝子のコピーのミスによる突然変異で誕生」によって、二本足 で歩くものが出てきました。それらは手を使い始めました。そして、それが「アウストラロピテクス」になり、ジャワ原人や北京原人になり、次にネアンデルタール人になり、クロマニョン人になり、そして最後に今の私たちようなホモサピエンスになったというのが科学です。これを信じろというんです。これが科学ですか?私から言わせるとですね、この進化論こそがまさに宗教です。こんなことをですね、たくさん 勉強した偉い先生たちが笑いもせずにおっしゃいます。
では、この進化は今はストップしていますか?そんな根拠はどこにもないはずです。だったら、この世の中で、この進化も進んでいっているはずです。しかし、それだったら大変でしょう。たとえば、法律ではどうでしょう。この世の法律は人間が人間のために作ったものです。ある野生の動物が人間とは何の関係もない他の動物を 襲ったとしても法律で裁くことはできません。
それでは、進化が今も行われているとしたら、法律が適応できる範囲、つまり人間の範囲に関する規定があってもよさそうなものでは、ありませんか?

もちろん、成年か未成年かというのに関する話は聞きますが、どこからどこまでを人間とする、なんて、そんな規定や決まりがあるという話は聞いたことがありません。
そんな規定や決まりがないというのはどうしてですか?それは、そんなものがなくても誰が人間なのか、人間じゃないのかぐらいは、そんな規定や決まりがなくてもわかるということなんです。
これは、今に限ったことではなく、未来永劫 、変わることはありません。どうしてですか?答えは簡単です。はい、それは、人間は進化しないからなんです。だからと言って、誤解しないでください。進化はしないが進歩はします。 例 えば、ルールを守らなかった人が、教育を受けたりしてルールを守るようになる、走るスピードが遅かった人がトレーニングをすれば速く走れるようになるというのは、進歩です。
しかし、人間でないものが人間になるとか、人間だったものが人間でないものになるとかということは、決して起こりません。もし人間の進化というものが本当にあって、昔、犯した過ちはもう繰り返さないということだったら、何が必要なくなりますか?もし、そのようなことになったら、まず、はじめになくなる物、いえ、なくさなければならないもの、それは、聖書です。そうでしょ?

今のような人間に進化する前の、数百年前、数千年前の人間が犯した罪や過ちを、今の進化した人間はもう犯さないとなったら、これはそれこそ何の意味も取 り柄も価値もない、ただ分厚いだけの本でしかありません。

第二テモテへの手紙には聖書の定義について単純明快に書かれています。

第二テモテへの手紙3章16節
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」

디모데후서 3장 16절
“모든 성경은 하나님의 감동으로 된 것으로 교훈과 책망과 바르게 함과 의로 교육하기에 유익하니”

人間がもし進化をしているのなら、これは過去形になっているはずです。人間が進化する前は、聖書とはこんなに役に立 っていたんだよ、でも、それは昔の話だよ。という具合です。

しかし、どうですか?数百年前、数千年前 に書かれた本であるにもかかわらず、今でも聖書を開くと、そこに納められた人間の罪深さや神様の愛は、今、21世紀を生きる私たちにも、ありありと伝わってきます。
考えれば考えるほど科学とは、もろいものです。ほかの学問もそうです。例えばこの前、アメリカであった大統領選を見て下さい。開票寸前 、アメリカの大手ニュース専門の放送局であるCNNはヒラリー・クリントン候補の当選確率 を91%だと予想しました。やれ教授だ、やれ評論家だと言う人たちも、かなりの割合で彼女の当選を予測していました。
新聞社たちは、あるいは、彼女の当選が確実された時に使う記事をあらかじめ書いておいたかもしれません。そこには、彼女 が今度の選挙で勝利するしかなかった科学的分析でぎっしり埋められていたに違いありません。あるいは、4年前、オバマ大統領が再選を果たした時に流行 した「ビックデーター」がどうのこうのという内容もあったことでしょう。しかし、結果はどうですか?予想に反してトランプさんが当選しました。

人間の知識や能力が私たちを救ってくれるとお思いですか?人間の学問や経験や理論が私たちを真理へと導いてくれるとお思いですか?

聖書を見てみましょう。

第一コリント人への手紙1章20節
「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。」

고린도전서 1장 20절
“지혜 있는 자가 어디 있느냐 선비가 어디 있느냐 이 세대에 변론가가 어디 있느냐 하나님께서 이 세상의 지혜를 미련하게 하신 것이 아니냐”

コロサイ人への手紙2章8節
「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。」

골로새서 2장 8절
“누가 철학과 헛된 속임수로 너희를 사로잡을까 주의하라 이것은 사람의 전통과 세상의 초등학문을 따름이요 그리스도를 따름이 아니니라”

人間の力だけで、いくらあがいても、この世の知識は幼稚でしかありません。いくらこの世の学問や科学を用いて、神を否定し、神の領域 を超えようとしたところで、所詮それは、むなしい限りの、だましごとにすぎないと聖書には書かれています。
それでは神様は私たちに何を望んでおられるでしょう。
ここに幼い子供がいます。パパやママがその子供に何かをしてあげます。何かを買ってあげます。例えば、その子の大好物である、おいしい料理 を作ってあげました。その子のお気に入りの服を買ってあげました。
その時のパパとママの気持ちを考えてみてください。パパとママは何を望むでしょう。私があなたに料理を作ってあげたのだから、あなたもこれから私に料理 を作ってくれと言いますか?私があなたにお気に入りの服を買ってあげたのだから、あなたもこれから私に服を買ってくれと言いますか?そんなご両親 はいないでしょう。では、何を望みますか?何を期待しますか?
そうです。「ありがとう」の言葉です。感謝の気持ちを望んでいるに他ありません。 神様は私たちに望んでおられるのは、私たちの力 で新しい何かをするのではありません。

十字架の上でイエス様は最後におっしゃいました。

ヨハネの福音書19章30節
「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」

요한복음 19장 30절
“예수께서 신 포도주를 받으신 후에 이르시되 다 이루었다 하시고 머리를 숙이니 영혼이 떠나가시니라”

完了した。もう、すべては成し遂げられたと仰ったのです。それでは私たちは何をしなければなりませんか。

マルコの福音書5章36節
「イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」」

마가복음 5장 36절
“예수께서 그 하는 말을 곁에서 들으시고 회당장에게 이르시되 두려워하지 말고 믿기만 하라 하시고”


ローマ人への手紙10章9節
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」

로마서 10장 9절
“네가 만일 네 입으로 예수를 주로 시인하며 또 하나님께서 그를 죽은 자 가운데서 살리신 것을 네 마음에 믿으면 구원을 받으리라”

ただ、キリスト・イエスを信じればいいんです。私たちの口でイエス様を主と告白し、私たちの心で神様は独り子であるイエス様を死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、それで、私たちは救われると書かれています。

私たちが神様に感謝をささげることは、神様の力 に頼るという証しであり、神様だけが私の救い主だという告白なんです。神様はこれを望んでおられるということを信じましょう。これこそ、神様が私たちに望んでおられるんです。


詩篇18篇1節~3節
「彼はこう言った。主、わが力 。私は、あなたを慕います。主はわが巌(いわお)、わがとりで、わが救い主、身(み)を避(さ)けるわが岩(いわ)、わが神(かみ)。わが盾(たて)、わが救(すく)いの角(つの)、わがやぐら。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。」

시편 18편 1절~3절
“나의 힘이신 여호와여 내가 주를 사랑하나이다
여호와는 나의 반석이시요 나의 요새시요 나를 건지시는 이시요 나의 하나님이시요 내가 그 안에 피할 나의 바위시요 나의 방패시요 나의 구원의 뿔이시요 나의 산성이시로다
내가 찬송 받으실 여호와께 아뢰리니 내 원수들에게서 구원을 얻으리로다”

このような証し、このような告白を神様はとても喜ばれます。


今日の本文をもう一度見てみましょう。

詩篇 50章23節、
「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。」

시편 50장 23절
감사로 제사를 드리는 자가 나를 영화롭게 하나니 그의 행위를 옳게 하는 자에게 내가 하나님의 구원을 보이리라

感謝のいけにえをささげる、それは聖書的には什一献金 を収めるのも感謝のいけにえでしょう。感謝の捧げものをするものをすることも、感謝のいけにえです。しかし、それだけではなく、感謝の奉仕を捧げる、感謝のお祈りを捧げる、感謝の心を捧げても、神様は快く受け 取ってくださることと思います。
今日はただ収穫を喜ぶだけの日ではありません。私たちが収穫できたのは私たちの力ではない、神様の力 によるものだと認める日です。神様が私たちを愛し、私たちに収穫を与えて下さったことを喜ぶ日なんです。
とても喜ばしい収穫をお与えになった神様に感謝し、そして神様の愛に報いる私たちでありますことを切に望みます。
제53회 무화과나무를 통해 주시는 교훈 →
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이카호중앙교회
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Posted by 홍성필 목사
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