제57회 예수님이 주시는 기쁨
2016년 12월 25일 설교

홍성필 목사
http://www.ikahochurch.com
ikahochurch@gmail.com

본문은 실제 설교와 차이가 있을 수 있습니다.

누가복음 2장8절~14절
"그 지역에 목자들이 밤에 밖에서 자기 양 떼를 지키더니 주의 사자가 곁에 서고 주의 영광이 그들을 두루 비추매 크게 무서워하는지라 천사가 이르되 무서워하지 말라 보라 내가 온 백성에게 미칠 큰 기쁨의 좋은 소식을 너희에게 전하노라 오늘 다윗의 동네에 너희를 위하여 구주가 나셨으니 곧 그리스도 주시니라 너희가 가서 강보에 싸여 구유에 뉘어 있는 아기를 보리니 이것이 너희에게 표적이니라 하더니 홀연히 수많은 천군이 그 천사들과 함께 하나님을 찬송하여 이르되 지극히 높은 곳에서는 하나님께 영광이요 땅에서는 하나님이 기뻐하신 사람들 중에 평화로다 하니라"


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마가복음 9장 41절
"누구든지 너희가 그리스도에게 속한 자라 하여 물 한 그릇이라도 주면 내가 진실로 너희에게 이르노니 그가 결코 상을 잃지 않으리라"

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여러분의 기도와 섬김이,
선교의 횃불을 밝힙니다.

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홍성필



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ハレルヤ!神様を愛する方はアーメン!と告白しましょう。アメーン。今日は皆さまと一緒に「イエス様が下さる喜び」 ‘예수님이 주시는 기쁨’ いうタイトルで恵みを分かち合いたいと思います。

クリスマスです。皆さん、メリークリスマス!はい、この「メリークリスマス」という挨拶 を言う時の皆さんの顔がとても素敵です。外は榛名湖や、群馬の色々な場所、いいえ、日本中、世界中 は、いま、クリスマスツリーのイルミネーションで輝いています。でも、正確には全世界ではありません。クリスマスツリーがあるということは、それだけで平和だという証です。クリスマスケーキを食べられるということは、それは、当り前ではありません。メリークリスマスと 挨拶を交わせるということは、それだけでとても平和だということです。
でも、考えてみると妙です。クリスマスが何の日なのか、メリークリスマスがどんな意味なのかも知らないのに、お互いに明るい顔であいさつを交わします。
家族や友人たちと、または恋人同士 が楽しい時間を過ごす、それはそれで結構なことですが、それだけで終わりでしょうか。では、この世の中が平和だからと言って、みんながみんな楽しいひと時を過ごせますか?

例 えば、周りに友人がいない、友人がいても忙しくて会う時間がない、友人もいて、会う時間もあるけれど、経済的な余裕がない、まあ、つまり、お金がない。こういう 場合はどうですか?この前お会いしたある人は、友達もいる、時間もある、お金もある程度は持ち合わせている、クリスマスでも恋人 がいないので寂しい、というんです。こう考えてみると、今の世の中でクリスマスを本当に楽しむためには様々な条件を必要とするようです。ですが、それで本当にいいのでしょうか。

マタイの福音書を見てみましょう。
マタイの福音書5章44節~45節
「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。 」

나는 너희에게 이르노니 너희 원수를 사랑하며 너희를 박해하는 자를 위하여 기도하라
이같이 한즉 하늘에 계신 너희 아버지의 아들이 되리니 이는 하나님이 그 해를 악인과 선인에게 비추시며 비를 의로운 자와 불의한 자에게 내려주심이라

神様は良い人たちのためだけでなく、悪い人のためにも太陽を上らせ、正しい人たちだけのためではなく、正しくない人たちのためにも雨を降らせてくださると書かれています。これはどうしててしょうか。それは、今は悪い人、正しくない人であっても、イエス様は、待っておられるんです。まだチャンスはある、今ならまだ間に合う、早く戻ってきなさい。私の元へ戻ってきなさい、と待っておられるんです。ですから、たとえ、今は悪い人、正しくない人、ましてや自分を迫害する者であっても、その人のために祈りなさいとイエス様はおっしゃっているんです。
悪い人、正しくない人であっても、神様は彼らのために恵みを与えてくださっているのに、え?彼氏がいない、彼女がいない、時間がない、金がない、そんな理由 でクリスマスを楽しく送れないといったら、それこそ、神様が望むことではないはずです。
では、まず、この、メリークリスマスというあいさつをしますが、せっかくですから、このメリークリスマスの意味から見てみましょうか。

まず、メリーという言葉 は英語で楽しい、陽気な、という意味です。そして、クリスマス、これはキリストとマスという単語の合成語です。キリストとはヘブライ語で「油を注がれた者」「救世主」という 言葉をギリシャ語に訳した言葉です。そして、最後にマス…というのは、カトリックでミサという意味、つまり礼拝という意味です。この三つの言葉 をつなげると、楽しい、キリスト、礼拝という意味になります。つまり、メリークリスマスとは、楽しくキリスト・イエス様に礼拝 をささげましょう、これがメリークリスマスという意味だったんです。
クリスマスは礼拝 を捧げる日、キリストの誕生を祝う日なんです。ですが、イエス様を信じない多くの人々は、そんなことはお構いなしです。多くに人たちはこれを認めようとしません。いや、認めることは認めるけれど、それを深く考えようとはしません。クリスマスのルーツはキリスト教から始まったが、今はそうではない、ただチキンを食べ、 彼氏や彼女とデートをし、プレゼントを交換する、それができない人たち?ああ、そりゃ残念でした、というのです。


以前、このような話を聞いたことがあります。皆さんは恩赦・または赦免という言葉 をご存知ですか。これはその国の政府やトップが持つ権限の一つであって、罪が確定している人に対して、その刑を免除してあげられるというものです。
これはアメリカであった話だそうですが、アメリカでは大統領だけでなく、その州法での犯罪に関しては州知事にもこの権限が与えられています。ある日、凶悪な犯罪が発生しました。数人が殺害されるという痛ましい事件です。幸い犯人は逮捕されたのですが、捕まえてみたら、彼はまだ未成年者でした。彼は当然起訴され裁判を受けることになったのですが、未成年者ではあるが、犯行が極めて残虐であるため、 結局死刑判決が下されてしまいました。
勿論、犯罪は犯罪です。しかし、彼が未成年者だ、何とかもう一度チャンスを与えられないものかというので、一部の人たちによって救命運動が始まりました。そしてその趣旨に賛同する人たちが増え始めて、その声はその州の州知事の耳にも入りました。
ある日、州知事は一つの決断を下します。その犯罪を犯した青年と会ってみよう。そして、それから彼にチャンスを与えるかどうかを見定 めようと思い立ちます。それで、彼には自分が州知事であることを伏せ、牧師の格好をして刑務所にいる彼を尋ねました。
しかし、その青年は、自分の目の前に牧師の格好をして座っている州知事をみるなり、怒鳴り散らします。出ていけ!お前らなんかの顔などみたくもない!
州知事は、まあ、若気の至りなのだろうと思い、彼をなだめます。「まあ、まあ、落ち着きなさい。」
そして青年がある程度落ち着きを取り戻してから、州知事は質問をしました。
「もし、君がここから出ることができたら何がしたいかね。」
すると青年は言いました。
「出ることができるだと?もしここを出ることができたら、俺をこんな目に合わせたやつらに復讐してやる。まず、俺を警察に通報した奴、逃げる俺を捕まえた警官、そいつらはただじゃ置かない。絶対ひどい目に合わせてやる。」
これを聞いた州知事は驚きましたが、それでも辛抱強く聞き返しました。
「いや、君、落ち着きなさい。復讐とか仕返しとかではなく、もっと他にやるべきことがあるんじゃないか?」
しかし、青年は自分の言い分を変えようとはしません。彼らだけではなく、自分の周りにいた人たちも懲らしめると言ってききませんでした。

州知事は何度もなだめたり、言い聞かせたりもしましたが、一向に聞く耳を持たないその青年には、もう、何を言っても無駄 だと悟りました。州知事は結局あきらめて、静かに席から立ち上がり、そして刑務所を後にしました。
州知事が立ち去った後、その刑務所の職員が青年に言います。
「馬鹿者。お前は何と愚かなことをしたんだ。今、お前の前にいた人は州知事だったんだ。その人の上着 のポケットの中には、お前の罪を免除できる恩赦状が入っていたんだ。それがあれば、お前は明日にでもここから出られたんだ。」
これを聞いた青年は驚きます。そして、泣き叫びました。許してくれ、俺が悪かった、もう一度会 ってくれ、もう一度だけチャンスをくれ。しかし、州知事がその刑務所を訪れることは、もう、二度とありませんでした。

そもそも、イエス様が来られた理由は何ですか。それは、マタイの福音書20章28節に書かれています。


マタイの福音書20章28節
「人の子が来 たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖(あがな)いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

인자가 온 것은 섬김을 받으려 함이 아니라 도리어 섬기려 하고 자기 목숨을 많은 사람의 대속물로 주려 함이니라

ヨハネの福音書1章9節~11節
「すべての人を照らすそのまことの光が世に来 ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来 られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」

참 빛 곧 세상에 와서 각 사람에게 비추는 빛이 있었나니 그가 세상에 계셨으며 세상은 그로 말미암아 지은 바 되었으되 세상이 그를 알지 못하였고 자기 땅에 오매 자기 백성이 영접하지 아니하였으나


イエス様はご自分のために来られたのではありません。この世の多くの人のために、多くに人たちの罪を解決するために、そのためにご自分の命を犠牲にするために 来られたんです。なのに、それにもかかわらず、人々はイエス様を拒んでいます、イエス様を認めません、イエス様を救世主、自分の、私のために来 られて犠牲になり、私たちの罪を私たちの代わりにすべて解決してくださった方だという事実を認めようとしないんです。
これは、例えばですね。私に借金があります。ですが、期日を過ぎても返すことができません。このままでは借金取りから逃れることができません。
まさにその時、イエス様が現れました。そして私におっしゃいます。私があなたの借金を肩代わりしてあげました。 借金 を肩代わりして「あげましょう」、ではないんです。「あげました」。もうすでに私がみんな払いました。
え?じゃあ、私は何をすればいいんですか?と尋ねます。イエス様は言います。いや、あなたが何かをする必要はありません。なぜならみんな私が解決したからです。ただ、そのことを認めて、そして信じてください。
イエス様がもし、あなたにそう言われたら、あなたはどうしますか?

いいえ、私は信じません、認めません。何があっても私が払います。大きなお世話です。といいますか?
当然、ありがとうございます!と、いうでしょう?違いますか?
他の例で見ましょうか?比較しやすいように、重要なポイント以外は同じセリフで行きますね。
私が犯罪を犯しました。そして、死刑判決を受けました。一審、二審でも死刑です。最高裁で上告も棄却されました。残された道はもう死ぬだけです。
まさにその時、イエス様が現れました。そして私におっしゃいます。私があなたの代わりに死んであげました。あなたの代わりに死んで「あげましょう」、ではないんです。「あげました」。もうすでに私が罰を受けたのですから、あなたは自由の身です。
え?じゃあ、私は何をすればいいんですか?と尋ねます。イエス様は言います。いや、あなたが何かをする必要はありません。なぜならみんな私が解決したからです。ただ、そのことを認めて、そして信じてください。
イエス様がもし、あなたにそう言われたら、あなたはどうしますか?
いいえ、私は信じません、認めません。何があっても私が死にます。大きなお世話です。といいますか?

当然、ありがとうございます!と、いうでしょう?違いますか?しかし、人間は長い歴史 の中でずっとこの、愚かな選択をしているんです。どれくらいですか?はい、2千年もの間、人間は拒み続けているんです。


マルコの福音書12章1節~9節
「それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造って、垣(かき)を巡らし、酒(さか)ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、 旅に出かけた。季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。ところが、
v彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。そこで、もう一度別 のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はずかしめた。また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまった。続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、
v殺したりした。その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと 取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちら
vのものだ。』そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来 て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」


예수께서 비유로 그들에게 말씀하시되 한 사람이 포도원을 만들어 산울타리로 두르고 즙 짜는 틀을 만들고 망대를 지어서 농부들에게 세로 주고 타국에 갔더니 때가 이르매 농부들에게 포도원 소출 얼마를 받으려고 한 종을 보내니
v그들이 종을 잡아 심히 때리고 거저 보내었거늘 다시 다른 종을 보내니 그의 머리에 상처를 내고 능욕하였거늘 또 다른 종을 보내니 그들이 그를 죽이고 또 그 외 많은 종들도 더러는 때리고 더러는
v죽인지라 이제 한 사람이 남았으니 곧 그가 사랑하는 아들이라 최후로 이를 보내며 이르되 내 아들은 존대하리라 하였더니 그 농부들이 서로 말하되 이는 상속자니 자 죽이자 그러면 그 유산이 우리 것이
v되리라 하고 이에 잡아 죽여 포도원 밖에 내던졌느니라 포도원 주인이 어떻게 하겠느냐 와서 그 농부들을 진멸하고 포도원을 다른 사람들에게 주리라


マタイの福音書23章37節
「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼 の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」

예루살렘아 예루살렘아 선지자들을 죽이고 네게 파송된 자들을 돌로 치는 자여 암탉이 그 새끼를 날개 아래에 모음 같이 내가 네 자녀를 모으려 한 일이 몇 번이더냐 그러나 너희가 원하지 아니하였도다

これはもう、歴史的にずっと続いている悪しき流れなのです。認めればいいものを認めないんです。

だからといって、これは、教会の外に限った話ではありません。教会の中でも同じです。子供 たちに聞きます。クリスマスプレゼントは、もうもらいましたか。クリスマスプレゼントは、誰がくれるものですか?サンタさんがくれるものですか?では、何が欲しいですか?ゲームですか?

人間の学問は今まで、この世の仕組みから何としても神様やキリストを消そうとしてきました。それが科学です。そしてその結果生 まれたものが「自然」や「偶然」という言葉です。
聖書は言います。天と地は神様がお創りになった。すると科学者は言います。いいえ、それは神の御業ではなく自然の力によってできたものだ。
聖書は言います。この世界と、この世界に生きる生き物、そして人間が、神様が明確な意図を思ってお創りになられた。すると科学者は言います。いいえ、それは神の御業ではなく 偶然起こった出来事だ。
このように人間の行いは神を消そう消そうとします。これは学問に限ったことではありません。
教会でも、クリスマスにイエス様は消え、サンタクロースがその中心人物となり、いつしか、礼拝 は消え、ただ、お金を使い、世俗的な時間を楽しむ。これでは、クリスマスの真の喜びを味わえるわけがないではありませんか。
クリスマスに神様から送られた贈り物、これはほかでもないイエス・キリストそのものなのです。これが本当のプレゼントなんです。お金でも買えません。この世の中のすべてのものをもってしても、とても買えるものではありません。そんな素晴らしいプレゼントを神様からいただいたんです。
じゃあ、私は何をすればいいんですか?と神様に尋ねます。皆さん、プレゼントに見返りがありますか?もし、見返 りがあるとすれば、それはプレゼントではないでしょう。
皆さんがプレゼントを選びます。そういう時に、ただ単に選びますか?いいえ、心を込めて、何が喜 ばれるか、何を欲しがっているかを考えに考えた末に買って、そして、その人にあげました。そしたら、その相手が、ああ、これを私のために買ってくれたんですか。ありがとうございます、とても 喜んでくれました。しかし、ある人は、あ、そ、と言っただけで気にも留めません。これほど残念なことはありませんよね。残念 を通り越して怒ってしまうかもしれません。

メッセージを締めくくりましょう。
私たちは神様に対して何かをする必要がありません。ただ、わたしたちのために死なれ、私たちの罪をすべて解決し、私たちを救ってくださったということをしんじて、認めて、感謝を捧げるだけでいいんです。その始まり、スタート地点がまさに今日、クリスマスなんです。
これを知っていれば、もう、お金がなくても、恋人がいなくても、クリスマスは寂しくありません。寂しいどころか真の喜 びであふれることになるでしょう。これこそが神様が喜ばれるクリスマスだと言えると思います。
本当のクリスマス、本当のメリークリスマスを迎え、そしてイエス様への本当の喜 びと感謝であふれる私たちであらんことをイエス様の御名において祝福いたします。

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Posted by 홍성필 목사
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