제54회 성찬에 담겨진 하나님의 사랑
2016년 12월 4일 설교

홍성필 목사
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본문은 실제 설교와 차이가 있을 수 있습니다.

이사야 7장 14절
"그러므로 주께서 친히 징조를 너희에게 주실 것이라 보라 처녀가 잉태하여 아들을 낳을 것이요 그의 이름을 임마누엘이라 하리라"


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마가복음 9장 41절
"누구든지 너희가 그리스도에게 속한 자라 하여 물 한 그릇이라도 주면 내가 진실로 너희에게 이르노니 그가 결코 상을 잃지 않으리라"

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홍성필



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ハレルヤ!神様を愛する方はアーメン!と告白しましょう。アメーン。今日は皆さまと一緒に「聖餐に込められた神様の愛」성찬에 담겨진 하나님의 사랑というテーマで恵みを分かち合いたいと思います。

もう、十二月です。十二月になればもちろん年末年始 もありますが、やはり、はじめに思い浮かぶのがクリスマスでしょう。これはイエス様を信じる人も、そうでない人も大差はないと思います。例 えば、キリスト教徒がカトリックとプロテスタントを合わせても全人口の1パーセントにも満たない日本でも、年末 はクリスマスセールだイベントだという声も聞かれます。あちこちで夜のイルミネーションが飾られます。
まあ、賑やかなことは平和だということでもあり、それはそれで結構なことではありますが、私たちイエス様を信じる人々にとっては、当然ながら特別な意味を持つ日と言えるでしょう。
イエス様は偶然来られたのではありません。今日の御言葉が書かれているイザヤ書は紀元前700年から600年の間に書かれていたとされています。イエス様が来 られるという予言の言葉は旧約聖書のいたるところに書かれてありますが、特にこのイザヤ書にはイエス様についての記述がたくさん見られます。

そして、今日、一緒に読んだ御言葉もその中の一つ、イエス様がまだ結婚をしていないマリアから生まれることを予言 しているのです。つまり、少なくともイエス様が来られる600年も前から既にイエス様が来られるということは予言されていたのです。
イエス様が来られ、私たちに父なる神様の御国 について語られ、そして私たち一人ひとりの罪を解決するために、十字架につけられ、死んで葬られ、そして私たちのためによみがえり、天に上られました。では、その 究極の目的はなんでしょう。それは、インマヌエルという言葉の意味に表れています。
インマヌエル、それはマタイの福音書には次のように書かれています。

マタイの福音書1章23節
「「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」

보라 처녀가 잉태하여 아들을 낳을 것이요 그의 이름은 임마누엘이라 하리라 하셨으니 이를 번역한즉 하나님이 우리와 함께 계시다 함이라


神は私たちとともにおられる、これがインマヌエルという意味であり、神様の独り子イエス・キリストを送られた、もっとも大きな理由 と言えるでしょう。皆さまは今、この瞬間、神様が私たちとともにおられるということを信じますか?信じられる方は大きな声でアメーンと告白しましょう。ハレルヤ、本当に感謝です。聖霊の時代を生きる私たちにとって、神様がイエス様を信じる私たちとともにおられるというのは、とても感謝である半面、そんなのは当然だと考える方もおられるかもしれません。しかし、これは当然ではないんです。

出エジプト記24章2節をみると、
「モーセひとり主のもとに近づけ。他の者は近づいてはならない。民もモーセといっしょに上ってはならない。」」

너 모세만 여호와께 가까이 나아오고 그들은 가까이 나아오지 말며 백성은 너와 함께 올라오지 말지니라

当時、エジプトを脱出したイスラエルの民の数はというと、同じく出エジプト記12章37節によると「幼子を除いて、徒歩の壮年の男子は約六十万人 。」と言います。当時は幼児はもとより、成年女子も人口の数には含まれませんでした。ですから、単純計算をしてみて、成年男子一人に妻一人 、これで120万人、そして、子どもが一家庭 に二人だと計算すれば子どもの数だけで、やはり120万人、こう考えるとどうなりますか?成年男子と女子が合わせて120万、子どもたちが120万、120万+120万は?240万人です。つまり、いくら少なく見積もっても、当時のイスラエルの民は最低200万人は超えていたとみるのが自然でしょう。200万人というとどうですか?今の 群馬県の人口が199万人ですから、ほぼ、この群馬県の人口と匹敵します。そんな中で神様の声を聞き、神様のみ前に立つことができたのはモーセ一人でした。
つまり、イエス様が来 られる前までは、ごく限られた預言者や神様がおつかわしになった人しか神様とともにいることはできませんでした。それは、イスラエルの民がカナンの地に入って定住し始めてからも同じでした。神殿の中には一般の人が入れない聖所と至聖所があります。そして、至聖所には、大司祭だけが1年に1回だけ民を代表してはいることが許されただけでした。
それはどうしてでしょう。それは、罪深き人間が神の前に立つことが許されなかったからであります。しかし、今はどうですか。はい。先ほど皆様 が告白されたように、今は神様が私たちとともにおられます。これは紛れもない事実です。では、それはどうしてでしょうか。旧約時代のイスラエルの民たちよりも私たちの行いがいいからですか?当時の民より私たちが善良だからですか?
人間の行いなど、いつの時代も似たようなものです。ですが、イエス・キリストが私たちのために、この世に来てくださいました。その理由 をヨハネの福音書3章16節で次のように書かれています。

ヨハネの福音書3章16節
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」

하나님이 세상을 이처럼 사랑하사 독생자를 주셨으니 이는 그를 믿는 자마다 멸망하지 않고 영생을 얻게 하려 하심이라

父なる神様がこの世を愛してくださったから、そのひとり子を与えて下さったのです。この世をどれほど愛してくださったかというと、ご自分のひとり子イエス・キリストを与えてくださるほど、この世を、そして、この私を愛してくださったのです。そして、イエス様を与えてくださったというのはどういう意味ですか?それは、私たちの罪、私たち自らの 力ではどうすることもできないほどの、罪深き私たちの身代わりとなって十字架にかけられました。

本当は自分自身 の罪の中で滅びるしかない私たちのために神様がご自分の最も愛するひとり子イエス様を送ってくださったのです。その結果、イエス様の死によって私たちが受けるべく罰を 身代 わりとしてお受けになって、イエス様のよみがえりにより、私たちの罪が神様によって赦され、そして、聖霊が下り、イエス様を信じる人には神様とともにおられるということができるということになりました。
これこそが神様の愛の証なのであります。

ローマ人への手紙5章8節には、こう書かれています。
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

우리가 아직 죄인 되었을 때에 그리스도께서 우리를 위하여 죽으심으로 하나님께서 우리에 대한 자기의 사랑을 확증하셨느니라

神様の愛をこれ以上何で証明できましょうか。これ以上確実な証拠がどこにありましょうか。
そして、神様の愛について、聖書はこのようにも書かれています。


ローマ人への手紙8章38節~39節、
「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力 ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

내가 확신하노니 사망이나 생명이나 천사들이나 권세자들이나 현재 일이나 장래 일이나 능력이나
높음이나 깊음이나 다른 어떤 피조물이라도 우리를 우리 주 그리스도 예수 안에 있는 하나님의 사랑에서 끊을 수 없으리라


天にあるもの、地にあるもの、そして、この世にあるすべてのものをもってしても、 私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできないと、ローマ人への手紙の記者であるパウロは告白しているのであります。

皆さん、皆さんが愛する人がいるとします。すると皆さんはどうしたいですか?まあ、普通の場合だと一緒に居たいと思うのが当然でしょう。

では、ちょっと変わった質問をします。私が愛する人と、どれほど一緒に居たいと思いますか?
1年365日?24時間、一緒 に居たいですか?もちろん、それは当然でしょう。しかし、これは、少し変な言い方ですが、人間はほかの人間を愛するというのは、それが限度なんです。その人と 一緒 に居たい、その人のそばに居たい、これが限界です。ですが、イエス様が私たちを愛してくださる愛は、なんと、それを通り越して、その限界を超越した愛なんです。今日は月の第一主日です。 伊香保中央教会はその月の一番初めの月に聖餐式を執り行っておりますが、その愛を象徴しているのがまさしくこの聖餐式なんです。

ヨハネの福音書6章51節を見ると、
「 わたしは、天から下って来 た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」

나는 하늘에서 내려온 살아 있는 떡이니 사람이 이 떡을 먹으면 영생하리라 내가 줄 떡은 곧 세상의 생명을 위한 내 살이니라 하시니라

と書かれています。
イスラエルの民はイエス様のこの言葉を聞いて、大変驚きました。その様子が次の節に記されています。

ヨハネの福音書6章52節、
「すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」と言って互いに議論し合った。」

그러므로 유대인들이 서로 다투어 이르되 이 사람이 어찌 능히 자기 살을 우리에게 주어 먹게 하겠느냐

それはそうでしょう。イエス様はご自分がパンであるとおっしゃいます。それだけではありません。

ヨハネの福音書6章54節~55節、
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。」

내 살을 먹고 내 피를 마시는 자는 영생을 가졌고 마지막 날에 내가 그를 다시 살리리니내 살은 참된 양식이요 내 피는 참된 음료로다
これは、読み方によっては、とてもグロテスクであり、恐ろしく聞こえるかもしれません。ご自分の肉を食べ、地を飲まなければならないと言っておられるんですから、この 言葉を初めて聞いた人たちは、たとえ弟子たちであっても、大変お驚いたことだろうということは、十分うかがえます。
ですが、当然ながら、これはそんなグロテスクな意味ではありません。そうではなく、これこそが神様の愛を物語っているんです。どうしてかというと、イエス様の肉を食べ、イエス様の血を飲む目的が次の節に書かれています。

ヨハネの福音書6章56節、
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。」

내 살을 먹고 내 피를 마시는 자는 내 안에 거하고 나도 그의 안에 거하나니

イエス様の肉を食べ、イエス様の血を飲むというのは、私たちがイエス様の中にとどまり、イエス様も私たちの中にとどまることができる、まさにこのためにご自分の肉を食べ、血を飲めと言っておられるんです。当然ながらこれは100パーセント象徴的な 御言葉です。

イエス様のこと全てを残らず私たちの心の中に受け入れること、そうすることで私はあなたと永遠にとどまることができ、終わりの日には、私たちをよみがえらせてくださるとおっしゃっています。
それでは最後に、食べることと飲むことについて考えてみましょう。皆さんはお肉は好きですか。もちろん、ベジタリアンの方もおられるかもしれませんが、要は同じです。牛肉や 鶏肉を…いや、これはちょっと気持ち悪いですね。まあ、刺身くらいにしておきましょうか。私は見かけによらず料理 や食べ物にはあまり詳しくありませんが、お刺身などには、何かの生け作りみたいなものがありますよね?
はい、それを食べました。そうしたらどうなりますか?当然、おなかの中にはいて消化されます。消化されることによって、その中にある成分が栄養となって私たちの体の中の隅々にまでいきわたって、エネルギーとなるわけです。しかし、素晴らしい、おいしそうな 料理が目の前に並べてあります。でも、それを食べなかったらどうなりますか?いくらおなかがすいていて、いくら目の前においしそうな料理 があったとしても、それを食べなければ何の得にもなりません。
では、食べる?はい、食べました。でも、その食べたものが、おなかの中でそのままでいます。お刺身だったら、それが生きたまま、おなかの中にいます。

これでは、エネルギーになるどころかおなかを壊してしまうでしょう。
お肉であろうが、野菜であろうが、私達が食べるという行為をするといういうのは、その食べる対象を犠牲にするというのと同じ意味です。
料理 だけではありません。たとえば薬もそうでしょう。いくら効き目がある高い薬だとしても、その薬を眺めているだけで効き目が表れますか?そんなはずはありません。その薬を飲んで体の中で溶けなければその効き目は表れないんです。
イエス様が2000年もの前に、この地に来られました。そして、末永 く幸せに暮らしましたとさ。これで終わってしまったとしたら、物語としては「めでたしめでたし」かもしれませんが、私たちとは何のかかわりもない、ただのありふれた昔ばなしだったことでしょう。
しかし、イエス様は、どうされましたか?イエス様はご自分をなげうってまで、私たちのために、十字架にかけられ、私たちを「滅 び」というところから救ってくださいました。


イザヤ書53章5節、
「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」

그가 찔림은 우리의 허물 때문이요 그가 상함은 우리의 죄악 때문이라 그가 징계를 받으므로 우리는 평화를 누리고 그가 채찍에 맞으므로 우리는 나음을 받았도다

イエス様の犠牲があったからこそ、私たちが平安を享受でき、イエス様の犠牲があったからこそ、私たちが癒されることができ、イエス様の犠牲があったからこそ、私たちが生きることができ、イエス様の犠牲があったからこそ、私たちが神様とともにいることができるのであります。

アーメン?

今日は聖餐式です。

カトリックでは、いわゆる化体説 といって、聖餐式に食べるものはキリストの肉そのものだ、そして葡萄酒はそのコップに注がれるとすぐに、キリストの血そのものになると主張していますが、プロテスタントの教会ではいわゆる 霊的臨在説 、つまり、それそのものはパンであり葡萄酒に過ぎませんが、私たちの中にイエス様の犠牲を思う心、イエス様の犠牲に対する感謝を思う心があるという点が大事だということです。

言葉を締めくくります。
この世の偶像やまやかしものは、人間に大きなものを要求し、その見返 りとして小さなものを与えるものばかりです。それは、神ではありません。悪魔、サタンの仕業です。
しかし、神様はどうですか。イエス様はどうされましたか。父なる神様はひとり子イエス様を私たちにお与えになりました。イエス様はご自分のすべてを私たちのために与えてくださいました。計り知れない、とてつもなく大きな愛を、永遠の命を与えてくださったのです。では、その 見返りとして神様が私たちに望まれることは何でしょう。


マタイの福音書10章32節~33節、
「 ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。 」

누구든지 사람 앞에서 나를 시인하면 나도 하늘에 계신 내 아버지 앞에서 그를 시인할 것이요
누구든지 사람 앞에서 나를 부인하면 나도 하늘에 계신 내 아버지 앞에서 그를 부인하리라

ローマ人への手紙10章9節~10節、
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

네가 만일 네 입으로 예수를 주로 시인하며 또 하나님께서 그를 죽은 자 가운데서 살리신 것을 네 마음에 믿으면 구원을 받으리라
사람이 마음으로 믿어 의에 이르고 입으로 시인하여 구원에 이르느니라

神様が私たちに望まれること、それは、ただイエス様を私たちの救い主として認めること、口で告白すること、受け入れること、信じること、これだけなんです。神様の愛に感謝し、私たちの救い主であるイエス様を信じ、受け入れ、そして、のみならず、その福音を広く伝える私たちでありますことを切に望みます。

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Posted by 홍성필 목사
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